日野原先生から学んだことは、「三つのV」「医療関係者もこれからは魂のケアを」「人間は60歳からが本番」などである。また、ユーモアの大切さも学ばせて頂いた。
この教会でも今月初めの礼拝(7月2日)に、日野原先生のスピーチのビデオを皆で見たばかりであったが、その日野原重明先生が、7月18日午前6時33分、呼吸不全で天に召された。105歳であった。
牧師家庭に、六人兄弟の次男として生まれた日野原先生であるが、学校でも成績がよかったため、ご両親は、「お父さんの後継ぎになれる」と思っていたようだ、と先生は記している。「父や母は、きっと私に牧師になってほしいのだろうなと思っていました。…そう言ったことはありませんでしたが、なんとなく想像していたのです」と。(NHK取材班『日野原重明100歳』90頁)
しかし、先生が10歳の頃、母の病気をある医師が、裕福でない牧師家庭ゆえに、無料で治療してくださったことから、医師になりたいと思うようになったという。子どもに伝道者になって欲しいと祈り願うクリスチャン家庭はある。そうなる家もあれば、ならない家もある。しかし、牧師だけが伝道するのではない。医療宣教団体があるように、それぞれの賜物を用いていただいて、主のご栄光を表わすことが伝道につながるのだ。むしろ、牧師でないからこそ、信仰への糸口を示すことができる。
では、牧師はいらないのか。父は、日野原先生のことでは、「医者としての領域を超えたことをしている」と言ったことがある。日野原先生ご自身が「これからは医療関係者も魂のことをやるべきである」と言われたのならば、しっかりした「魂の神学」がなければならない。
教会は魂のことをするところ。魂とは、神とつながることができる、人の本質的な存在である。
魂の働きは、①愛すること、②思いつくこと、③ひらめくこと、④夢を見ること、⑤良心の働きをすること、である。
魂が神の聖霊を受けた時に、人の思いを越えた出来事(祝福)が展開する。
魂が聖霊を受けるのは、主イエスの十字架により、自分の魂の罪が贖われると信じた時である。
この四行に、父が生涯かけて探究してきた魂の神学が凝縮されている。父の場合も、ミッション系の学校の先生になった方が(経済的にも安定しているし)…と思ったこともあるが、神学校を出て、牧師にならないことは、兵学校を出て艦隊勤務に就かないようなものだと思い、牧師になった。そして、経済的なことを神さまにお委ねして、独立の牧師となった。その結果が、教団の教会に比べれば小さいが、魂の神学のあるキリスト教会ができ上がった。